「趣味の山歩き ますます深くなる近くの山域」 趣深山 Copyright(c) 2002-2011
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K2サミッター小松由佳さんから 講演中 何度か 「運 、不運」という言葉を 聞いた。
K2のような大きな山の中では 所詮 人の力などでは どうしようもない、自然の驚異。
ただ「運 、不運」と、 自分の力では 何ともしようがないと諦めるだけ のことでもない。
「運 不運」はあっても、やはり 人間ができることは 一生懸命 自己の可能性を高めるようと 努力をすること。
すっかり忘れかかっていた 「情熱」 という言葉を聞いて 熱くなるものを強く感じました。
今回講演を主催された 徳島岳人クラブの方々、また 2007徳島県ダウラギリ1登山隊の「7人の侍」方々、有り難うございます。
もとより
K2登山の成功は27年間 ずっとK2への計画を練り上げてきた、東海大学K2登山隊の長年のご努力、全体の成果であり、チームワークの賜です。
東海大学登山隊の関係者各位には 目標としている全員無事下山を果たされましたことなど、 何よりのこととして、 心より 登山隊登頂成功の ご祝福を申し上げる次第です。
また わざわざ 四国までこられた 小松様には 貴重な お話 有り難うございました。
東海大学K2登山隊2006
(以下講演抄録についての このウェブサイト上での文責は趣深山)
平成18年12月9日
場所 徳島県板野郡松茂町総合会館
はじめまして 小松と申します。
今日は このような場にたてるのを 大変 嬉しく思います。
今日 私は 初めて四国にやってきました。
午前中は 鳴門の渦潮なるのものを みてきまして、
漁船が ゆっくり うかんでいく のをみて
なんて 時間が ゆっくり 流れるところかなと思いまして 、
初めて四国にきたんですが 大好きになりました。
今日は 時間が 限られた1時間半ですが
私の登山。 そして 私の登山を通じて 可能性を追求することの大切さを知
っていただけたらと思います。宜しく お願いします。
まず 自己紹介ですが。
私は 秋田県で生まれ育ちました
秋田県の山の方で 緩やかな山が連なる山のところで育ちまして 小さいときか
ら 何となく山への憧れがありまして、高校に入学したとき 登山部があり、
すぐに入部を決めました。
しかし、高校での山登りは 競技登山でして、インターハイ、国体をめざして、
荷物を 背負ってスタートからゴールまで走る、タイムを求める登山でして、
高校3年生になって 自分がやってきたのを 振り返ってみて 確かに目標に
していた インターハイ 、国体に出場し、上位入賞したが、 自分は一
体 何をやってきたのだろうかと思いました。やはり 山は雄大なフィールド
で活躍するわけですから もっとルールのない登山をしてみたいと思いました。
それで
大学は 神奈川の大学にはいりまして、大学に入学したときに山岳部に 入部
を決めました
その山岳部というのは 非常に厳しい組織で 部活は厳しく、毎日5時から9時
まで 部活があり、毎週 土日は 山。 年7回の合宿があったので、大体
換算すると学生時代は年180日から200日ぐらい山に入った。
今は 私は 登山用品店でアルバイトしながら 週2、3日 山へ行って、 海
外に年に3ヶ月から4ヶ月行く。そういった生活を送っています。
それでは 大学山岳部の生活の中から どういう風に ヒマラヤを そして
K2を目指したかという話をしたいと思います。
私は大学山岳部に入ったときに、実は 高校が女子高校だったので それまで
女性の中で山登りをしていましたのが、ところが大学山岳部にはいると 女
性部員は私だけ、男性ばかりの中で 女子部員は 私一人だったので、 女性
として山の難しさを非常に強く感じました。
体力的な部分の問題 もありますが 、それ以上に 人々の眼があり 周りの
眼などありまして、女だからできない やれる筈がない 女だから体力がない
筈だといったものが非常に大きくて、山岳部の4年間 かなり苦労しました。
特に後輩が入ってきたばかりの時に やはり女の先輩には ついて行きたくな
いとかで 、時には後輩とは けんかのように 激しく話し合いを 続けて、
いった記憶があります。
やはり 山登りは 良い仲間がいて はじめて いい山登りが出来るので
どんなに葛藤しようとも しっかりとした信頼関係を 結んでいくのが
基礎的なことでして、4年間 女性として リーダーとしてやっていく上で
苦労しながら 話し合いながら本当のチームワークを築いていった期間でした。
人間界にいれば 女性 男性とかの区別がありますが
山へいくと 男とか 女とかに差はなく 、
同じように 寒さを与えて、
同じように つらさ を与えます。
ですから 無理に男性と女性とを分けることはないのです。
私は 女性ということで もともと筋力が弱いので 普段から男性の1.5倍
位は常にトレーニングをして 体力的には 常に平等に あろうと努力して
負けないようにしています。
特に女性だから荷物を持てないとか などは 自分では区別を付けないように
しています。
最近 どこの 大学山岳部も活気がありません。どの大学山岳部も 今は大
体 平均で2-3人が多い。 特に関東はどこも廃れています。
私の大学も 例にもれず 一年生で入ったときが 3人しかいなかった。
その後 段々 後輩が増えてきて 4年生の時は後輩が11人でき 全員で12人
の部活でした。
あまり クラブ自体に活気がないので 一寸でも しごいているわけではない
のに、厳しくするとすぐ やめてしまうものもいました。
ですから 部活自体に ハリを付けたい 活気を付けようと思い 何か 共通
の目標をたてて そこへ向かっていく過程を経て 成長できるように 海外登
山を 計画しました 。
前置きが長くなってしまいましたが、
ここから パソコン表示 お願いします。(以下 パソコン プロジェクター併用)
(写真は東海大学k2登山隊2006 写真館 に公開されています。)
また http://www.k2climb.net/news.php?id=14969
http://www.k2climb.net/ にもあります。
実は私は ヒマラヤに行くというのはのは かねてより 長い間の憧れだった
のです。
ただし チャンスは 人から与えられる チャンスと、 自分で作り出さなく
てはいけないチャンス と2種類ありますが、 私の場合は チャンスが来るの
を待っていたのですが、やはり 待っていても それは 来るものではないと
気づきました。
そこで大学4年の時、自分で計画をたてて 後輩を引き連れて 海外登山をや
ってみました。皆 海外の山は 初めてで、全員 高い技術をもっていなかった
ので、費用が安く 夏休みに登れるところを 調べ、人に教えてもらって、山を
選びまして、
2004年に シンチャンウィグル自治区 未踏峰 6355mへいきました。
この山の情報は 日本にいるときの情報は 地図一枚だけの情報でして それ
で計画して 現地へ行ってみると やはり計画通りにはいかず 色々な変更点
が強いられまして、特に海外の山は 計画の柔軟性が求められるのが よくわ
かりました。
海外の山は 自分たちで ロープを張って道をつくる。
日本の山には登山道があって その道を辿っていけば 良いのですが、海外の
山は 殆ど自分たちで道を作っていくのが面白かった。
海外の山はスケールが 大変 大きくて素晴らしい、これを機会に年3,4回
づつ、海外の山へ行く生活が始まりました。
私の一番好きな山登りのスタイルは アイスクライミングでして、 アイスバ
イル、アイゼンを使って 氷の滝を登るスポーツです。
海外登山は その続きがあるんですが 韓国にあるアジアの最大の氷などを登
りました。
そのうち大学を卒業しまして ちょうど卒業するときに チョモランマへいか
ないか誘われました。
チョモランマはエベレストの中国側からの名前です。
そのとき 私は とにかく海外の経験が積みたくて参加しましたが、
このときは 残念ながら 私は山頂にたつことはできませんでした。
チョモランマは たしかに世界で一番高い山で、チョモランマに登ったこと
自体は すごいのですが、 やはり世界一ということで 最近では 登山者が集中し
非常に沢山の人が登っていて、2006年春には 約500人が登頂し。
累計延べ3000人を越えています。
(注 k2は 講演時点で 延べ 253人[女性8人] 内 日本人 49人[女性1人])
チョモランマから
日本に帰ってきてからも なんとなく山に対して 失望しまいまして、
昨年(2005年) 春、 2ヶ月位 山へ登る気持ちが失せました。
私はそれまで 山登りに情熱を ついやした生活を送っていましたので、山
登りがなくなってしまうと、もうそれは 自分が なぜ生きてるか わかなく
なってしまいました。
なぜ 生きているのか ここにいるのか わからなくて、 勿論 山自体もや
めようとして すべて山道具は箱へ詰めてゴミに送ろうかともしました。
そういった かなりの挫折があったのです。
そういったなかで 自分が初めて山へ登ったときの 新鮮な気持ちなどを思い
だして、人が どう 言っても どうみられようとも 本当に自分は山が好
きなんだ。 どう 思われても 自分は山が好きなんで、自分が納得して登れ
ば それはそれで良いんだ。
自己満足ために登ろうと思って、 昨年 自分の山登りは また新しく生まれ
変わったのでした。
ちょうど その時に 実は大学山岳部から「K2に行かないか」と話がありま
した。
チョモランマのことがあって かなり挫折を経験した後 なので どうだろう
自分はK2にいって、 「ちから」 になれるのかなとも思いましたが、チャンス
を失いたくはないので参加することに決めました。
そして トレーニングを始めました。
体力トレーニング。 走ったり 大学山岳部から続けていたが 1日 15Km
位走って 自分と同じ体重の荷物を持って 山を歩くトレーニングをしました。
K2は体力だけでなく、かなり技術が求められる山なので、カナダへ行きまし
た。
カナダ はアイスクライミングと ミックスクライミングの先進地です。
ミックスクライミングは日本ではまだ あまり取り入れられていない。
アイスクライミングは滝を登る。
ミックスクライミングは かぶっているところでも アックス アイゼンを使
って登ります。
ミックスクライミング 岩を伝ってのぼる。
岩 氷 を登る先進地カナダで新しい クライミングの修行をしました。
2006年 6月から 8月までパキスタンのK2に登りました。
K2はインドの西 世界の屋根の西カラコラム山脈 パキスタン中国国境にある。
K2では 私たちは 登るルート として南南東リブルートを選んだ。
(http://www.u-tokai-k2.jp/route.htm より引用)
K2の それぞれの隊は 各の レベルにあわせ そのルートを選ぶが、
岩の多い一般的で人の多い 南東ルートに比べ、
南南東リブルートは 人が入らないので
自分たちの力が最大限出せ オリジナリティーが出せるし、雪の要素が主体で、
大学山岳部出身で 技術はないが 体力はあるので どちらかというと 体力
勝負のルートを選びました。
K2は 「非情の山」 「世界で一番困難な山」と呼ばれている。
中国名「チョゴリ」 「K2」は測量記号 カラコラム2号です。
パキスタンの地元の名がないのは あまりに谷の奥 昔から人の目に触れない
ところにあるから なのです。
谷の奥 車が入るところから 一週間歩いてやっと山へK2へ。
アスコーレ から歩く。麦畑が美しい。
2ヶ月間で合計荷物800kgを日本から3ヶ月かけて船便で送り、
ここからポーターに運んでもらう。
ポーター 一人 30kg 、ポーター 一日600円。
パキスタンは日本の物価の20分の一で、普通 成人男性 一日一生懸命働いて
一日300円くらい。
物価の違いから 子供に接するのも 気をつけなくてはいけない。
子供は 外国人みるとすぐ「マネー マネー スウィート スウィート 」という。
優しさのつもりで 外国人が飴 ボールペンなど すぐ何でも与えるのはよくないことで、
贅沢を 教えてしまうことになるのではないか。
人なつっこいポーター。
憧れの トランゴタワー。クライミング要素主体の 難しい山だが日本でも
しっかりトレーニングさえすれば登れるようになる。 人間やれば何でもできる。
生き倒れたロバ。 野生動物も倒れる。自然の厳しさ。
私たちはテント泊。
ポーターサークルは ポーターたちの寝床で 石を積み重ねて 彼らは10人ぐらいで
固まって マイナス20度でも 一枚の民族衣装で生き残れる。強い人でないと
生き残れない。
山羊は食料用で、通称「ゆきちゃん」と名付けた。 「ばへー」と啼く。
山は急峻 緑のない乾燥した山。
殆ど岩の山で 日本とスケールが違う。
氷河を歩いて やっとK2がみえてきた。
k2みて スケールが大きく 見上げる目線が高く 本当に登れるのかと思う。
しかし 不安より のぼってやるという気持ちが高かった。
G4 ガッシャブルム4峰 k2より難しい山
マッシャーブルム ブロードピーク 見える。
K2 南南西稜 南東稜 南南東稜リブのルート
k2の中でも もっとも難しいのが 南南西稜マジックライン。
ノーマルルートは 南東稜 イタリア隊1954年初登頂。
私たちは南南東リブルートをとる。
(http://www.k2climb.net/expguide/route.htm )
全員で6名のクライマーでのぼり 順々に休みながら登る
ベースキャンプは高い山へ登るために 薄い酸素にならすため拠点
休養のため 殆どBCにいる。
突然 登ると 心肺機能が追いつかない。8000mで 地上の3分の一 の空気。
登っては下りをくり返し 徐々に酸素の薄さにならしていって 登る 。
極地法を採用。
c3からは酸素を使って登るのを選択。
殆どBC 拠点にいる。
(http://www.u-tokai-k2.jp/route.htmをもとにGoogleEarthで作成)
BC 5200m
c1 6400m
c2 7100m
c3 7900m ここから一気に山頂。
キャンプ間 大体標高差1000mあり 体力勝負。
とくにベースキャンプからc1は体力がいる。
ベースからc1は一番距離があり しんどかった。
K2は難しいより 危険だ。 そして体力。ともかく体力がいる
ベースから見える チョゴリザ山頂は 軍事的に仲が悪い インド パキスタ
ン間の 国境にあり現在 登山禁止。
海外の山を登るときは許可を取る。
許可は 一隊につき 何百万の金を 払ってのぼる。
登るときは 必ずコック 連絡官を付けることが決められている。
連絡官は監視役、外国人が変なことをしないように監視。事故の時のスムーズ
な連絡係。
コックは食糧事情がやりやすいように ということでつけるが、 カレー味。
毎日カレー 、毎日カレーで、 毎日微妙に 味は違っても、所詮 日本人には
カレー。
カレーの におい をかぐだけで 食欲がなくなる。
日本に帰っても もう3年位はカレーは良い位になった。
食用の山羊「ゆきちゃん」を縛って捌く。この後 ゆきちゃんは殺されてしまう。
私は動物が 殺される場面 は初めてで 喉を切って血が出ているのは グロ
テスクで ショックで涙が出た。
だがよく考えると これは 私が知らない日常で、日本ではスーパーなどで
普通に肉が並んでいるが そこにあるのが当たり前。
一方 パキスタンでは自分の食べる食物の動物は 自分で殺し 自分で捌く。
自分たちの手で動物を見送って 感謝の気持ちを持って 動物を食べ、一片も
無駄にしない、そういったサイクルがある。
命の重みは 日本よりパキスタンの方が むしろよく分かっていると 感じた。
日本でも 食べることに対して もっと感謝の気持ちがいるのではと感じまし
た。
山を登るだけでなく 山に向かうまでの 道のりで色々学ばされることが多か
った。
登山スタイルは 頭に ヘルメット。 腰に ハーネス。
南南東リブ 急に見えるよりも緩い。
ルート自体は難しいかといえば 難しくはないが、 とにかく危険だった。
岩自体危険。 さわると はがれ崩れる。
岩が ぼろぼろと はがれる。足を置いても崩れる。
風があると落石がすざましい。
冷蔵庫大の落石がどんどん落ちてくるる。
あたりは落石 の岩の砕ける硫黄の においが一杯 漂う。
ブーオーッと音を立てて 落ちてくる時は自分は死ぬのではないか、
自分は大丈夫と 暗示をかけないとやりきれない。
ともかく危険。 落石が一番怖い。
そのほか雪崩が凄い。
雪崩の爆風がすごくて 荷物を背負って立っていても
衝撃の風で飛ばされそうになった。
死の危険を感じながら 登り続ける。
ひたすら 雪の斜面登り続ける。
雪は常にあったが、晴れていると暖まって雪は深くなり、雨が降ると凍る。
状態の変化が著しい。
このあたりは 乾燥していても 気温差が40度あり 朝マイナス20度迄冷え
昼は 25度迄あがって、昼は半袖でも過ごせる。
パキスタンの山は このシーズン。このあたりは暖かい ところで有名。
氷河 下は氷
下を見ると スケールが大きくすばらしい。
前の隊が残したロープなど 残されたゴミ が沢山ある。
海外の高い山には しばしばこうした ゴミが多くある。
2ヶ月間 山を登ることだけ考えて過ごすというのは、日常的な色々な複雑な
人間関係などいろんなことを離れて タダそれだけに打ち込むことができ大変 素
晴らしい時間でした。
太陽が出て雪が出て 岩が露出。
5200mから 6400mに c1
K2は平均斜度45度あり、 テントサイトに苦労。
テントは 唯一 平らな場所で落石危険ないところ。
4-3級の岩 氷ミックスのところ
7000m c2は平らな場所がなく 前の隊が残したゴミを積み重ねて テントはる。
何をするにもロープを付ける。
ベースキャンプをでて3時間 更に3時間で6100m
日本の山とスケールが違い 一歩一歩歩いていても とっても楽しい。
これは前の隊が残したゴミ。こういったのが非常に多く残されている。
テント内 には 食料 ヘルメット フリース めがね など色々な ものが
一杯残されている。
日本の山でゴミを残すのはよくないとされている。
海外の山でも同じことだ。 ただし非常に酸素が薄く 体が動かない。
登ってきて そこにいるだけで 精一杯なので、とても、
ゴミをおろす余裕などがない場合もあり、なんともできず、ある意味しょうがない、
場合もある。
風が強くなると 歩いていても飛ばされる。 天気が悪いと下に下りなくてはいけない。
判断を間違うと命がない。 進むか下りるかの判断は 慎重にする。
「モーツワルト」という 牛も 食料用で 命のはかなさを感じさせられる。
人間の手。
k2の周りに散策すると ゴロゴロしている。 カツラのような人間の頭皮もあった。
山は美しくて素晴らしいだけでなく 厳しく恐ろしい側面があると考えられました。
人間の胴体も出てきた。
靴は鋲靴、 50年前のイタリア人と特定できてたが、
2000m上で滑落し クレバスに落ちて 氷河を流れて
50年後 ここまで流されてきた。
自分も もしかしたら こうなるのかもと思うと、悲しい気持ちになった。
風が強い日 翌朝 新雪30cm。
気温25度のあと いきなり雪が30cm。夏と冬が一緒にくる。
雪が降ると 雪崩があり危険。 ベースキャンプで1週間 雪だるまなど作って
遊んで 待機。
7500m地点 ここが一番難しい 氷 岩 雪ミックスのところ。
岩が非常にもろくて ボロッ とはがれる ハーケンが固定できない。
支点をとらないで ロープを目一杯 のばさなくてはいけない。
トップが落ちたらそのまま下まで 落ちて死ぬ。過酷な状態。
自信があればいく、 自信がなければやめる。
究極の判断だが、 最後は 気合いと 根性だけ。
一時間ごとに 日焼け止めクリーム塗っても
高所は紫外線が強く しっかり焼ける。
シミそばかすが一杯。いかに体にダメージか。
高所に長い間いることは 体に 非常に大きくダメージがある。
ロープに ぶら下がって下りているとき、 風が強いと 上から どんどん石が
落ちてくる。 落石にあえば ロープにぶら下がっているだけに、
よけれないので 本当に 危ない。これはもう 運に みを任すしかない。
登山というのは運 不運の要素が非常に大きい。
運 不運なんて なんと曖昧な要素か思われるが 人間の ちからでは推し量
れない自然の驚異 があって それが自分にどう作用するか 自分には全く分
からないものがあって 運に任せるしかないという 状況が何度もあった。
しかし 運 不運でやはり人間は死んでしまったりする。自然の厳しさを感じ
る。
トラバースして 最終キャンプc3。
ボトルネックは 氷のセラック 氷塔で 標高差400m 巨大な氷、。
ここで一度BCまで くだって ベースキャンプで休養 をとる。
イタリア人夫妻が先に登頂に成功しBCへ下ってきた。皆で祝福する。
夫妻は有名なクライマー 8000m9座。(写真集)
誰かが 登頂するとみんなで 祝福する風習がある。
イタリア人夫妻を祝福した次の日 アタック開始、 6人の内 体力 体調の基準で
アタック隊として3人がえらばれた。
3時に 出発。 なんとその 1時間後 アタック隊リーダーの先輩 Kさんが腹痛訴え
更に1時間後には 腹痛がひどくなり とうとう 動けなくなる。
すぐにベースと交信して、Kさんだけ とりあへず ベースへ戻ることになった。
先輩とは また明日登って再会する約束でわかれ、 残り2人は先へ行くことになった。
ところが先輩は ベースで診断すると急性虫垂炎だった。すぐにヘリで下ろされる。
これはアタック直前 凄いタイミングだった。
先輩もショックで 残念だったが、突然アタック隊リーダーの先輩Kさんを失うことは
予想してなく 非常にショック。
しかし これはよく考えると 幸運だった。
もし仮に 上のキャンプで 動けなくなったら ヘリも着陸できず、
自分だけで精一杯のところで 80kgの先輩を担いでなどとても おろせない。
ただ 見守るだけで そのまま 何もすることができない。
よく考えたら
むしろ ここで 盲腸になったのは運がよかったのかもしれない。
体が反応したのでは?
結局 山頂へは 2人でアタックすることになるが、長年のチームワークで不安はない。
7900m c3到着後 仮眠をとり 午前3時出発。
ここから先 8000mは未知の領域。 何が起こるか 不安は大きいが、
私たちの 可能性が楽しみだった。
どこまでやれるか ともかく やれるところまで やろう。
最高の一日にしよう。と二人で話し合った。
C3 3時出発。 8100mで朝焼け。
ボトルネックが もの凄い音で時々崩壊し、 生きた気がしない、とにかく崩
れないでくれと祈るだけだった。
雪が深く 膝上までの ラッセル。ロープにつながったまま 先頭を交代しながら
進むが 体力的に つらい。
やっと2km進んで 平坦に見えるが クレバスが随所に有り いきなり腰まで潜る
大変危険だ。
ブロードピーク ガッシャブルム1峰が見える。
8200mからは マッシャーブルム 未踏峰など 見える。
カラコルムは急峻。 見えてる山々は未踏峰数 多く有り。
雲が流れてくると 吹雪になり。
雲が抜けると快晴。天気の変化が激しく もう高いところにいるんだとよくわかる。
いよいよ山頂へ、
午前3時に7900mのc3を出て なんと14時間歩いて、夕方5時に山頂。
あと3、4時間すれば、 もう日が暮れる時間。到着した時間は 何とも遅い
時間。
もともと 2時で引き返すと決めていたが、 もうすぐそこへ山頂が見えていて
引き返すことができなかった。 あと山頂まで30分だと思って登ると また
次の山頂があり、 また30分だと思って行くと また 次の山頂 があり、またそのく
り返し。それでついに引き返せなかった。
これは はやく引き返さないという点で 判断ミスであった。それで その後 下りでビ
バークになる リスクを冒してしまったと反省。
登頂したのは成功でよかったのですが 、途中で引き返せなかったのは 自分
の弱いところだった。
山頂に立ったときは、 雲があって見えなかったが そのうち晴れてきた。
山頂では なんだか 山へ受け入れられた気持ち。
山頂は 気温が高く 素手。 着ているのは 雨具、カッパ 。
すぐにベースへ 「のぼりました」と 無線交信。旗を掲げる。
C3から ここまで 口で酸素を吸いながら登った。
チョゴリザ ブロードピーク ガッシャブルム 見える。
ここに 立って地球が丸いと 初めて感じた。
地平線の端の部分が下へ へこんでいて地球が丸いと感じた。
自分は宇宙に立っている感じ。 まさに空と一体化。
山頂へたった瞬間。 昨年挫折の経験から 非常に感動しました。 それまで
つらかったことを思い出して つらかったのを支えてくれた一人一人の顔を思い
出しながら ゴーグルの下で涙がとまりませんでした。
ただ この場所は ゴールではない アタックの折り返し地点。
まだまだ下りは 危険 。
半分は喜び 半分は緊張感の感じだった。
下りにかかる。 下から見ると絶壁のような傾斜がきつい下り。
登りはコンテニュアスだが、 下りはスタカットなので、下りには とても時間がかかる。
下りはじめて 約3時間で日が暮れて
ヘッドランプの明かりだけが たよりで 足跡を辿っていって下った。
しかし 8200mラインで とうとう酸素がなくなる。
最終キャンプc3 まで無酸素で登ってきたので、もし そこで酸素が切れても
最終c3と200mくらいの標高差なら なんとか大丈夫だろうと確信。
確信はあったものの もうすでに
長時間行動の疲労が たまり、 眠気があり、
一寸でも目をつむると ウトウトと 眠りこんでしまう状態。
判断力は鈍る。
ヘッドランプを落としても、その危機感すらなく、ぼーっとしていて何の反応もない。
さらに ヘッドランプの電池が切れてしまって、
予備電池に替えるのに素手で凍傷になりそうで、
手袋をはいたり 外したり それで時間がどんどんたつ。
しかし 電池を替えたのに なぜか光がつかない。
なぜか 下のロープが凍っていて エイト環に上手に入らない 。
何か不思議な現象がいくつも 次から次へと 重なるようにおこる。
8200mという地点を考えると ここでのビバークは非常に危険と思って
いても、
ただ 私たちの状態を考えると ここで このまま 無理に下りつづけるのは
もっと危険。 そこで 8200mでのビバークを決めた。
多分9時くらいだと おもって 時計をみると なんと夜中の2時半。
高所は不思議なことに 時間感覚が早く流れる。1時間位だと思っても2時間
なんだか 自分の体の動きが スローになって 時間の感覚が2倍はやい。
なんだか知らない間に 2時半になってしまっていた。
あと3時間 休めば、朝が来る。 明るくなる。 朝が来れば 暖かくなる
それまで少し休めば眠気もとれる。それで ビバークを決めた。
割と 傾斜の強いところに 座れる場所をカットして ただ着の身着のまま、
腰を下ろし 朝を迎えた。
気温はマイナス20度位迄 下がる。
ただ 運がよかったのは 風がなかったこと。 もし風があれば 天候が悪ければ 多分
そのまま死んでいただろう。
非常にコンディションがよくて 生きて帰ることができた。
ビバーク中 常に 「生きているか 生きているか」と 声をかけあって過ごした。
朝 寝ていたら 段々 周りが 明るくなるのを感じ ほっぺが凄く暖かくな
り 何だろうと目を開けると 太陽が少しずつ登ってきて 光が 一気に
ぱーっと 照らし出されてきた。周りは暗かったのに 一気に 銀色に明るく
なり素晴らしい眺めになっていって、 8200m 、そこからの朝日は
素晴らしく、人間が見るものでないものを 見た感じがしました。
私はなぜか人間が ヒカリに包まれて 生まれてきたときのことをを思い出す
ような感じがしました。
非常に荘厳な眺めで 自分がいるのは死の世界なのに まさに太陽が上がり
光に照らされて 太陽や山が自分たちが生きているのを喜んで 歓迎するよう
な気がして なぜか涙が止まらなかった。
下っていって ようやくc3のテントが見えてきて まだ危険だが
ともかく自分たちが残してきたところへきたと喜んだ。
k2の肩とよばれる8000m付近はテントがポツポツ一杯ある。
テントの中に10体ぐらい死者が残っている。座ったまま死んでいたり。
k2自体危険で 死亡率26パーセント。
遺体を 山からおろすこともできず放置され ここは 特に大変恐ろしい場所。
亡くなった人が 一杯。
テントの中などに放置されたり。腰掛けたまま死んでいる。そんな恐ろしい場所。
c3でくつろぐ。
高山病の症状で 頭痛 食欲なし 吐き気 気持ち悪くなり 倦怠感がでる。
非常に食欲なく 食べれるものも 限られる。
幸い最後まで甘いものは食べれた。クッキーとケーキたべる。
顔が すっかりやつれる。
足が凍傷になってないかをチェック。
酸素を吸う。
このあと この8000mの場所で 不思議な もの音を聞く。
やはり ここは特別な場所だと感じる。
山を登っているときは 不思議な言い方でいえば
第六感が目覚めるような感じがする。
極限の集中力と極限の緊張感のなかで登っていると
普段 街では 感じないものを感じたりする。
すべての感覚を使って 山を登っているので
何か知らない もの音を聞いたりする。
不思議な経験が非常に多かった。
次の日 一気にベースへ戻った。
私たちの
ビバーク中は 地形の関係で無線交信ができず 連絡とれず。
山頂で交信して以来 全く 電波が届かず 、
BCでは 遭難したのでは 滑落したのでは と心配していた。
実は 実家の両親へも 「もしかしたら かえらない かも?」の
連絡があり 母はパニック。
そういうこともあり 皆に心配かけていたので、
ですので 次の日 一気に BCへおりたときは
みんな本当に 喜んでくれ
生きていてよかったと涙を出して 抱き合って 肩を組み合って
生きていてよかったと 喜びあった。
ただ 自分が生きている ここに存在している ことに
ここまで喜びを感じられたたのは はじめてだった。
生きているって本当に 素晴らしいことなんだと 改めて実感した。
6人のうち2人しか のぼれなかった。
みんな登りたかったのに しかし2人しか のぼれなかった。
その状態のなかで
いって かえってきて でも 私たちが登ったのを みんなで喜んでくれた。
本当に 素晴らしいチームだった。本当によい仲間だった。
私は みんなの顔を見て 初めて登頂の実感が湧いた。
ここは安全な場所だ。
やっと ここに かえって来ることができた。
じつは アタック出発前に 23歳で初めて 念のため 遺書を書いた。
(講演時は24歳)
非常に危険な山なので もしかしたら 死ぬかも と思って
もし万が一 死んだら のために
「後悔ありません。有り難うございました----」
しかし こうやって生きてかえることができ 本当に幸せでした。
それだけの覚悟を決めて登ったので やはり達成感があった。
次の日 みんなで登頂を祝う パーティー を開いてくれた。
首にパキスタン人の作った お守りを かけてくれた。
隣のテントを張っていた ロシア隊も祝ってくれた。
BCへは今年 約150人がきて 登頂できたのは たった4人だけだった。(イタリア人夫妻 東海大隊)
BCは国際交流の場。色々な話が聞け 楽しかった。
しかしロシア人らは 私たちがK2を立ち去る日
私達の8200mビバーク地点付近を登っていて 不幸にも雪崩にあう。
雪崩で4人死亡。
私たちが 生きて帰れたこと
ロシア人が亡くなったこと これを分けるのは
もう運 不運しかないなと思う。
それを考えると 山は 非常に厳しい世界だ。
運 不運というのは 曖昧な要素のようで、でも実は
自然界では 非常に大切な 大きな、 人間にとって大きな はずせせない要素だ。
(注 8月13日、 8人のクライマーが山頂へ向けて登山中、ボトルネックを抜けた8350m付近で、
上部の雪壁が400×300 feet滑り落ち 4人が行方不明。)
http://www.k2climb.net/news.php?id=14937
ギルギーメモリアル。 K2で亡くなった人の慰霊碑 。
K2では 幽霊の音 声を聞いた。
亡くなった方は さぞかし無念だったろう。合掌。
K2は天候が安定しないので 難しい山だ。 天候予測も とても難しい。
アタックが成功したのは たまたま晴天が4日間続いたからで これは全く 幸運だった。
自分のコンディションだけでなく 山のコンディションがうまく あわなければ登れない。
つねに 運 不運がつきまとう。
夜12時 幻想的で すばらしいが、
この3時間後 さっきのロシア人が私達のビバーク地点で雪崩にあう。
私達も 生と死の境を 通って きたとなと思うと 今更ながら 恐ろしくなる。
いよいよ K2を立ち去る日
全員無事 帰してくれて 有り難うと 山の神様に手を合わせる。
2ヶ月 K2 いて 包み込むような K2
落石で 殺されるかと思った 牙をむいた K2
いろいろなK2をみて
のぼらせてくれ 生きて かえしてくれた k2に感謝。
あまりの落石で 殺されるかと思ったし 山が 生きていると感じた。
2ヶ月 緑を全く見なかった。 緑は人間の心に優しい いいものだ。
動物がいると すぐ いたずら この動物が 怒って 3m飛ばされる。
山では死なないが ここで 牛につかれて死にそうになった。
ポーターが歌ってくれた。歌うことと踊ることは彼らの楽しみ。
彼らの 生活の中での一番の楽しみなのだ。
帰りは ポーターたちは 毎晩 毎晩 生き生きと 歌い。踊る。
私たちも踊る。
みんな 生き生きしている。表情豊か。無関心、 無表情は一人もいない。
日本に帰国後 感じたのは 毎朝 満員電車に揺られていると
みな 電車の中では 朝から 無表情で 死んだような顔つきだ。
ものにあふれた生活では 無表情で 生き生きしていない。
日本では 本当に 豊かに生きているかどうかと 考えさせられた。
反対に ポーターらの生活は貧しく 物は あふれてない。
決して豊かではないが しかし精神的には豊かで 生き生きしている。
これは 厳しい自然環境に生きているからこそ、
喜びとか 小さな幸せに対して感受性豊かに感じているからなのだろう。
彼らと つきあっていて 私も表情豊かになった。
幸せって なんであろうか 。
豊かさについての価値観を かえさせられた。
ポーターと幸せそうな笑い。
日本では無表情な私が彼らと一緒だと なぜか生き生きしてくる。
人間的に豊かな人の中にいると 自分も変わる。
今日本に戻ってきて
日常的な しがらみの中で もう生き生きとした感じがでていない。
素晴らしい仲間 素晴らしい登山 仲間たち。
今回は、27年間 監督が 夢を懐いて 苦労されてきたのに
私は これに便乗する形で ちょんと乗って登れてしまった。
いろいろな 多くの人の支えがあったからこそだった。
以上で画像。終了。
映像
7000m歩いているところ
c2からc3
山頂から 地球が丸いがよく分かった デジカメで とった。
自分が立っているところが一番高いのが気持ちがよい。
最後
音声入れてください。 ポーターが生き生きと歌っている。
これで映像が終わり。
k2に登っていて 思ったのは 自分は一人で生きているのではないと凄く感じた。
山登りも 仲間といく。
自分が生きているのを考えさせられた登山だった。
色々な人に支えられ 山頂にたったとき 感謝の気持ちがまず浮かんだ。
ここまで歩いてきたのは 本当にみんなが見守っていてくれたからだ。
一人で生きていたというのは 実は いかかされていたんだ。
逆に 自分が知らないところで 誰かを いかしているんだ と思った。
そうした 人とのつながりが 感じられた 登山だった。
K2 に登ったあと、 今後も自分の目指す山を登り続けていきたい。
私の 信条としている言葉は
「パッション クリエイトティブ ポシビリティーズ Passion creative possibilities
情熱が可能性を形つくる。」です。
つまり情熱を持ってやっていれば 自分の可能性が広がって 最後は目標に達成できる。
今の時代 いろんな 環境が整っていて、
何ができるかの 可能性は ほぼイコールで目標につなげることができる。
自分が非常に硬い意志で 一つずつのスッテプを大切にしていけば
一歩一歩 かならず目標に近づいていける。
私は K2で そう感じたし 今後も そう信じていきたい。
自分の可能性は常に追い求めていきたい。
山では いままで 挫折を2回経験しているし つらいことも 多かった。
でも 山が好きだったからこそ 続けてこれた。
向上することを楽しんで これたからこそ 続けてこれた。
「楽しむ」というのも 私の信条の一つ。
「楽しむ」というのは ただ楽をしてでなく 努力して 自分を高める その過程を楽しむこと。
それを大切にしていきたい。
人生一度だから 後悔のないようしていきたい。
折角ですから 後悔なく 自分をしっかり向上させていきたい。
そのことを 楽しんでいきたい。
今回はチャンスを与えられて のぼった山登り。
今後はチャンスを与えて 登りたい。
今後しばらくは 自分の山登りを追求。
今後 南米のパタゴニアの 岩登りを目指していきたい。
実は私の夢は いずれ アルプスの少女ハイジのような生活を送りたい。
今のような山登りは 非常に危険で 死ぬかもという覚悟で登っている。
気合いと根性で登っているので、長くは もたない。
30を過ぎたら やめたい。
やめても 山の麓で住んで 何らかの形で 山と関わっていきたい。
そういった生き方を 一生懸命 模索している。
今 アルバイト生活で経済的には厳しいし 苦労しているが、
いくら経済的に つらくても 自分が本当にやりたいことを貫いているので
とても満足していますし、今 とても 幸せです。
今後も そういった生きかたを貫いていきたい。
私は 山を登る上で 自分が一番生きているなと 感じるので とても好きです。
山登りは 自分が成長できる一つの手段として 今やっています。
ただ 自分にとって いまは 山しかないが でもそれだけではない。
今後も いろいろな可能性を追求していきたい。
そして自分にできる 最高の生き方をしてしたい。
勿論 自分にしかできないことがあれば やりたいが そこまでの才能はない。
ともかく一生懸命 今を生きたい
人間として輝いていたい。
K2の話はこれで終わります。
有り難うございました。
(以上 講演抄録についての このウェブサイト上での文責は 趣深山)
★ k2の女性登頂者 2006年まで
2006年までで k2の女性登頂者は小松さんで8人目。内5名は 既に死亡。3名生存。
氏名 国 登頂年月日 1 ワンダ・ルトキュヴィッチ ポーランド 1943-1992 1986年6月23日 カンチェンジュンガで死亡 2 リリエンヌ・バラール フランス 1948-1986 1986年6月23日 登頂後下山中に死亡 3 ジュリー・トゥリス イギリス 1939-1986 1986年8月 4日 登頂後下山中に死亡 4 シャンタル・モーデュイ フランス 1956-1998 1992年8月 3日 ダウラギリで死亡 5 アリスン・ハーグリーヴス イギリス 1962-1995 1995年8月13日 登頂後下山中に死亡 6 エドゥルネ・パサパン スペイン 1973- 2004年7月26日 7 ニヴェス・メロア イタリア 1961- 2006年7月26日 8 小松 由佳 日本 1982- 2006年8月 1日
『K2 非情の頂―5人の女性サミッターの生と死 』
ジェニファー ジョーダン著,海津 正彦訳
山と溪谷社 (2006/03)
"Savage Summit The Life And Death of the First Women of k2 "
http://www.k2climb.net/expguide/surviving.htm
★ 山野井 泰史 氏
2000年7月 山野井 泰史 氏はK2(8611m)南南東リブを無酸素単独初登した。
『垂直の記憶 岩と雪の7章』 山野井泰史 著 2004年4月初版 山と溪谷社 191ページ図から引用
2006年12月13日 第1版制作
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